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日本震災パートナーズは、NPO法人 阪神・淡路大震災「1.17希望の灯り」の賛助会員になっております。 |
はるかのひまわり
震災で失われた小さな命が、ひまわりとなって生まれ変わった・・・
瓦礫の中から力強く咲いた「はるかのひまわり」は、阪神・淡路大震災の被災者の方々を勇気づけ、震災復興のシンボルとなりました。
震災の記憶を風化させない、そんな思いを込めて、多くのボランティアにより蒔かれた「はるかのひまわり」は、日本全国に今も大輪の花を咲かせています。新潟県中越地震、スマトラ沖地震などの被災地にも、ひまわりの種が配られています。
はるかのひまわり
兵庫県神戸市東灘区に住む加藤いつかさんと4歳年下の妹・はるかちゃんは、仲のよい元気いっぱいの姉妹だった。いつかさんは、中学のハンドボール部でゴールキーパーとして全国大会に出場するほどのスポーツ少女。はるかちゃんは動物が大好きで、隣の家のオウムまでかわいがる、笑顔のたえない明るい少女だった。
1995年、いつかさん15歳、はるかちゃん11歳の1月のある夜。いつかさんと父の四朗さんはそれぞれ二階の自分の部屋で、はるかちゃんと母の満子さんは一階の居間に布団を並べて寝ていた。そして、死者6,000人以上の大惨事となった、マグニチュード7.3の阪神・淡路大震災が発生した。いつかさんはなんとか自力で脱出したのだが、2階部分が崩れ落ち、1階は完全に押しつぶされていた。近所のうどん屋の主人、藤野芳雄さんに助けを求めたいつかさん。地震発生から3時間後に四朗さんが救出され、さらにそれから2時間後、満子さんも一階の瓦礫の中から助け出された。その後、藤野さんは、1階の家具の下敷きになっていたはるかちゃんを発見した。呼びかけ続けるいつかさんの声に、はるかちゃんが応じることは永遠になかった。わずか11歳だった。
恐ろしい震災で一変してしまった神戸の町。藤野さんも、一時はこのまま神戸で店を続けることができるのか、神戸は復興できるのか不安になっていたという。震災から2ヶ月後、加藤さん一家は避難所を出てマンションを借り、新しい生活を始めた。しかし、いつも賑やかだった一家に会話はなくなり、特に震災と亡くなったはるかちゃんの話は禁句となっていた。家族は辛い震災の記憶を早く消したかったのだが、いつかさんの心の中からはるかちゃんの明るい笑顔の記憶はいつまでも消えなかった。
震災から半年後、藤野さんは配達の帰り道に、かつて加藤さんの家があった空き地、はるかちゃんの遺体を発見した場所を通りかかった。すると驚いたことに、そこに無数のひまわりの花が力強く、太陽に向かって咲いていた。藤野さんは不思議に思ったと同時に勇気が湧いて来た。瓦礫の大地に根をはってたくましく咲く姿に、きっとはるかちゃんの生まれ変わりに違いないと思い、加藤さん一家にこのことを伝えた。満子さんはひまわりを見て、娘がひまわりとなって帰って来た、と涙した。 |

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